10月11日、家康は軍勢を率いて駿府を出発した。この開戦が決まると、家康はいつになく若やいだと本多正純は記している。23日に二条城に入り、同日秀忠が6万の軍勢を率い江戸を出発した。家康は25日に藤堂高虎・片桐且元を呼び、先鋒を命じている。 幕府方の動員した兵力は約20万に上り、この大軍が大坂に集結したため少なからず混乱が起こった。ただし福島正則や黒田長政らは江戸城に留め置きとされた。豊臣家恩顧の者たちが豊臣方に寝返るのを恐れたといわれるが、関ヶ原の戦いで東軍勝利のために尽力した黒田長政に関してこれは当てはまらない。なお、江戸城留め置きとされた大名も、その子が大坂に参陣している。
11月15日、家康は二条城を出発し、奈良経由で大坂に向かった。18日、家康は先着していた秀忠と茶臼山陣城にて軍議を行っている。
慶長19年(1614年)11月19日、戦闘は木津川口の砦においてはじまる(木津川口の戦い)。この後11月26日には鴫野・今福で(鴫野・今福の戦い)、11月29日には博労淵、野田・福島において激しい戦闘が行われた(博労淵の戦い、野田・福島の戦い)。数ヶ所の砦が陥落した後、11月30日に豊臣軍は残りの砦を破棄、大坂城に撤収する。
豊臣方が籠城した大坂城を徳川方は約20万の軍で完全に包囲した。家康は12月2日、茶臼山を[8]、以降は各将の陣を視察し、仕寄(攻城設備)の構築を命じている。4日より各隊は竹束・塹壕・築山などの仕寄の構築を行いつつ大坂城に10町から5・6町まで接近していった[9]。これ以前、家康は10月22日に命じた方広寺の炉で作成させた鉄盾を各将に配布している[10]。
この接近時に豊臣方の挑発に乗って始められた、包囲戦における最大の戦いである真田丸・城南の攻防戦(12月3日、4日)では、豊臣方が徳川軍を撃退、諸隊に大きな損害を与えた。秀忠は同日4日に岡山に着陣し、家康が講和を策している事を知り家康に総攻撃を具申するが、家康は敵を侮る事を戒め戦わずに勝つ事を考えよとこれを退けている[11]。5日、家康は住吉から茶臼山に本陣を移し[12]、8日までに到着した部隊にも仕寄の構築を命じている。
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9日より家康は大坂城に対する攻城を本格化させる。先月23日[13]より伊奈忠政・福島忠勝・毛利秀就・角倉素庵に命じて建設していた淀川の流れを尼崎に流す長柄堤がこの日竣工し、大和川がある為干上がる事はなかったが川の深さは膝下まで下がる[14]。本工事終了後、続いて大和川の塞き止めも行っている。また、諸隊に命じて毎夜三度(酉・戌・寅の刻)、鬨の声を挙げて鉄砲を放たせ、敵の不眠を誘っている(この鬨の声は京まで届いた)[15]。この頃より大坂城総構への南方からの大砲射撃も本格化し、幕府方の仕寄は堀際まで松平忠明隊は20から30間、藤堂隊は7間に近接している[16]。
10日には投降を促す矢文を送り[17]、11日には甲斐や佐渡の鉱夫を動員して南方より土塁・石垣を破壊する為の坑道掘削を始めた[18]。13日、家康は大名一人につき50本の熊手付き梯子を配っている[19]。更に、船場の堀の埋め立ても命じた[20]。
そして16日から全軍より一斉砲撃が始められる[21]。北方の備前島だけで大筒100門と石火矢が本丸北側の奥御殿に、南方の天王寺口からはこれまでの総構から本丸南方の表御殿千畳敷に目標を変更した砲撃が和議締結まで打ち込まれ続けた。この砲撃では国友製3貫目の大砲が用いられており、また6月頃にイギリスより購入したカルバリン砲4門、セーカー砲1門や7日前に兵庫に到着したオランダ製4・5貫目の大砲12門[22]も含まれていると思われる。この砲声は京にも届き、その音が途切れることはなかった。
これに対し豊臣方は近接する徳川方に激しく銃撃し、竹束のみの時は一手に付き300から500人の死傷者が出たが、相手が築山・土塁を築くと鉄砲の効果は激減する[23]。また砲撃に対抗してこちらも砲撃したり、塙直之が蜂須賀至鎮に夜襲をしかけ戦果をあげたが(17日)、劣勢であることは否めず、和議に応ずることになる。